2:難しい誠意

 

 1月下旬のある日――僕はS駅の駅前にいた。昨年「ゆるキャラグランプリ」で、埼玉県勢で初のグランプリに輝いたカパル君がいる街で、ちょっと話題になったんだけれど…まぁわからないですよね。そういえば、数年前に荒川に迷いこんだアザラシを、「ごまちゃん」(あるいは、アラちゃん?)とかネーミングして街を盛り上げようとしたのもこの街でした。…まぁ、これもたぶん覚えていないですよね。でも、青空が広がる昼下がりに、ときどき、アザラシが川から顔を出して、ボケーとしている光景がある街ってけっこう魅力的ですよね(と、思っているのは僕だけか)。

 

 バスに乗り、しばらくすると、密集した住宅が疎らになり、田園が広がってきた。右手のだだっ広い田園からは、さいたま新都心のビル群がはっきりと見えた。それはまるで映画『君の名は』のような、都市と田舎の対比をしているような風景だった。

 

 

 彼女の実家に遊びに行ったのは、これが初めてだった。本当は、新年の挨拶をするために、上旬に行くつもりだったが、僕が体調を崩してこの日となった。

 

 人の家に来て、僕がまずやってしまうこと。

 

部屋に置かれている本を見て、相手の内在的論理―と、佐藤優さんのような感じじゃないけれど―を考えることなんですね。

 本自体はほとんどなく、置かれている本も、新刊書店で買っているようで、紙のカバーで本が包まれていた。唯一、目に入ったのは埼玉県の雑学に関する本だけでした。

 

――大丈夫かな、と僕は思った。僕のアパートにはここの10倍、、、もしかしたら100倍くらいは本があるかもしれないからだ。福祉や教育、心理学、精神医学、仏教、児童文学の本、夏目漱石芥川龍之介の全集がびっしりと2つのカラーボックスに入っているし、それだけでなく押し入れの1段目にも本が「山」というか、ベルリンの壁みたいになっている。それを見たときに、彼女のご両親は何を考えるだろうか。自分で言うのも、変だけど、けっこう僕の家の本棚はインパクトがある。

 

 

 昼食を頂くことになっていたので、ご両親が用意して下さったお寿司やローストビーフ、手作りの煮物、ほうれん草のおひたしが炬燵に並べられた。

 丁寧に盛り付けられたローストビーフやおひたしなど…細部までご両親の配慮を感じずにはいられなかった。やはり日本は滝川クリステルさんが言うように「お・も・て・な・し」の国なのです!

 味もとても美味しかったし、煮物もおひたしもおかわりを頂きました。しかし僕はせっかく料理を作ったお母さんに「美味しい」という言葉を一言も言いませんでした。

 その言葉を口で言ってしまうと、なんとなく嘘っぽく聞こえてしまうような気がしたからです。

 逆に、食事が少し落ち着いてから、僕が大宮のデパ地下で買ってきたバームクーヘンが出てきて、みんなで食べたとき、ご両親は「美味しい」と言って下さった。

 

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 後日、僕から、あえてあのとき「美味しい」って言葉を言わなかったことを彼女に話してみたら、お母さんは気にされていたようで、なんか悪いことをした気分になった。

 定形化された言葉、繰り返し使われる言葉が、僕はあまり好きじゃない。東日本大震災で「絆」「つながり」って言葉が、繰り返し繰り返し色んな場面で使われました。僕自身、震災直後は「今の日本に足りないものは、つながりなんだ」と思ったりしたけれど、どんどんに同じ言葉を浴びてくると思考が停止してくるし、形骸化してくる。現に、震災後から見るようになった商店街とかにぶら下がっている「絆」「つながり」なんて旗やチラシに心を動かされて行動する人なんて、いないでしょ。定形化された言葉、繰り返され続ける言葉が価値を生むことはほとんどないのだ(と、僕は思ってます)。

 そういう理屈で、お母さんに気を使わせないつもりで「美味しい」という定形化した言葉を使わなかった。だからと言って、語彙力のない僕が美味しさをうまく表現する的確な言葉をついに見つけられなかった。

 ある場面においては、否、魂の込められたイキた感情があれば、定形化された言葉が一番ストレートに相手の心に伝わる(のかもしれない)。素直な気持ちから出る「美味しい」って言葉が。――変に難しく考える必要なかったな。