3:ルポ 春日部の歯医者さん

 

 一昨日、ふいに歯が痛みだした。鏡で自身の歯をよく見てみると、奥歯の歯と歯の間が黒くなっていた。そこはよく食べ物が挟まって、数年前から糸ようじを買って毎日念入りにケアをしていたところだった。

 

 僕が住んでいる春日部の中心地から離れた某駅周辺には、わりと歯科が多い。川口に住んでいた頃、うんざりするほど眼中に入っていたサイゼリヤやガスト、ドトールといったチェーン店はここでは全く見ない。その代り歯科は僕が知っている限り5カ所ほどある。

 選択肢が多いと、逆に困るものだけど、通院しやすさと内装の綺麗さ(キッズスペースがある)から、T歯科で診てもらうことにした。すぐ隣にも歯科があって、そこにいる歯科医は麻酔の権威と思わせる看板があるけれども、建物は古いし、2階にあって中の雰囲気がわからなくて、なんとなくT歯科へ行くことにした。

 

 

 案内されたリクライニング式の診察台に座ると、松本穂香さん似の綺麗な歯科助手がやってきた。僕から歯の状態を聞き出し、先端に鏡の付いた医療器具で、歯の状態をチェックする。顔前に向けられた照明からは僕の顔が薄っすらと映っている。剃り残した髭が妙に気になる。休日だから、いい加減に剃ったのがバレバレである。歯科助手が一所懸命に左から右へ、右から左へ医療器具を動かす度に、僕はだんだん恥ずかしさを覚えた。

 

 「口を閉じくださーい」

 

 「口をあけてくださーい」

 

 その甘い口調は、まるで粉砂糖をふりかけるときのような優しさに似ている。歯科助手は、たぶん不慣れなのだろう。医療器具で僕の歯を何回も繰り返しチェックする。臥床した状態で、ずっと口を開けているから、流れてくる唾液がうまく呑み込めない。

ちょっと苦しくなって「早くしてくれ~」と心で念じても、松本穂香さん似の助手には届かない。…「くぅーキツ」と自分が唾でむせ込む姿を脳裏に想像していると…またあの粉砂糖をふりかけるときのような優しい口調で「口を閉じてくださーい」と。そして、また魔法の言葉「口をあけてくださーい」と言われて、長くなるだろうなぁと腹を決めて口を開ける。

 

 優しさには優しさを。助手の方が優しく振る舞ってくれているのだから、こちらも少しは気を使わなければならない。

 この間、新聞で読んだけれど、世界終末時計(核戦争などによる人類の絶滅を午前0時となぞらえ、その終末までの残り時間のこと)が現在は2分前であるという。僕が生まれた1990年は10分前、ソ連が崩壊した1991年は17分前に延びたわけだけれど、その後はどんどん短くなって、ついには残り2分前となる。どこまで頼りになる時計なのか分からないけれども、つまり今と言う時代は平和ではないんですね。終末時計の話に限らず、世界レベルでは「分断」云々が言われているし、物事が単純化され極端な方向に処理されたり流されている感は肌身で感じることがある。

 そんな時代だからこそ、ちょっとした気遣いって大事。

 

 そういうことを考えながら、僕は照明に映る剃り残した髭を見ながら口を開けていた。唾液が喉の奥に流れ込もうとしている。またちょっと苦しくなってきた。

 

・・・「口をとじてくださーい」。やっぱり長かった。

 

 

 綺麗な内装、綺麗な歯科助手と来たら、やっぱり医師はさわやかなイケメンであった。

 学生時代にお世話になった関西出身の先輩に顔が似ていた。先輩は八王子の大学に行くために、川口へやってきてそのまま都内に就職したと記憶している。関西なまりでありながら、切れのよい話し方は、内容こそ忘れたけれども、僕の心の中で、目指すべきよい先輩のモデル像となっている。

 イケメン医師は、虫歯を確認し、レントゲンを撮るように助手に指示をする。

 レントゲン室は近未来そのものだった。僕は松本さん似の助手に促されるまま顎を機械にのせた。すると、天井に取り付けられた2つの機械が、不思議な電子音とともに、僕の頭の周りを人工衛星のように回り始める。

 

 レントゲンを撮り終えたあと、診察台に戻って、眼前にある大きなモニターで自身のレントゲン写真をみる。所々、濃い白で映っているのはおそらくずっと昔に処置した虫歯の痕だろう。その他は専門家じゃないから、よくわからない。

 イケメン医師が戻ってきて説明を聞きながら、改めてレントゲン写真を見ると、なるほど確かに虫歯になっているところが、黒い陰になっている。しかも歯の半分をその黒い影が被っている。

 「虫歯が歯の神経まで届いたから痛みが出てきたわけです」とイケメンは言う。

 糸ようじを使い始めてある時から、その箇所が引っ掛かる感覚があった。でも痛みがないから気にしなかった。それは単純に虫歯が神経に届いていなかったからで、知らない間にどんどん虫歯菌が僕の歯を削っていったのだろう。

 その後、目の前のモニターで、これからの治療過程の動画を見せられる。その上で「型取りなど含めて、あと5~6回ほど来てもらうことになります」とイケメンは僕に補足した。今の歯科現場ではこんなにも丁寧に治療のプロセスを説明してくれるのだと感心したものである。

 

 優しい歯科助手、イケメン歯科に気持ちをよくし、最新鋭の設備や治療プロセスに関心しながら、僕は受付に行った。そして渡された領収書を見てびっくり。

5380円!…自然と先のイケメン医師の言葉が頭を過ぎる……「あと5~6回来てもらうことになります」。……頭の中の計算機はスロットゲームが回り始めるように忙しく計算を始める。

 

 「……次回の診察はいつ頃がよろしいでしょうか」

 「あっちょっと待ってください」

 僕は慌ててリュックからシフト表を出した。